今、認知症の人は600万人以上とされ、近い将来、高齢者の4人に1人が認知症あるいはその予備群になると予測されています。今後はいかに認知症の人が安心して暮らせる社会を形成していくかが大きな課題。そんな中、2023年6月、「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」が国会で可決成立しました。
法律で認知症に対する国や自治体等の責務が示されたものの、何をどうすればいいのか、いまひとつわからないのが正直なところ。自治体やNPO法人の取組を通して「認知症の人が安心して暮らせる社会」を考えてみます。
2023年6月、国会で「認知症基本法」が成立し、認知症の人が尊厳と希望を持って暮らしていける共生社会を目指すという国の方針が定められた。具体的な施策については各自治体に委ねられているため、地域によって取り組み方も変わってくるだろう。「認知症の人が安心して暮らせるまちづくり」と言っても、そのためにはどんな制度が必要なのか、どんな施策が効果的なのか等々、一から議論して実行していくとなると、なかなか険しい道のりになりそうだ。
そこでモデルケースとなりうるのが、2017年12月に全国に先駆けて「認知症条例」を制定した愛知県大府市の取組だ。大府市は名古屋から電車で15分ほどの距離に位置し、自動車産業が盛んな豊田市や刈谷市が近いこともあって、子育て世代が多く暮らす人口93000人ほどのまちである。そのため高齢者がことさら多いわけでもなく、65歳以上の高齢化率でいうと、全国平均の28%を7%ほど下回っている。
そんな大府市が、なぜ全国初となる認知症条例を制定したのだろう? 認知症条例の普及啓発と施策の推進に携わる健康都市推進係長と高齢福祉係長のお2人(※以下、大府市担当者)に条例制定の経緯を伺った。
大府市担当者
大府市は1970年に市制が始まって以来、一貫して“健康都市”を基本理念に掲げています。そのため、もともと市民の健康づくりや医療福祉の充実に力を入れてきたまちでした。
とりわけ認知症施策については、国立長寿医療研究センター(以下、長寿研)と認知症介護研究・研修大府センター(以下、大府センター)という日本有数の研究機関が市内に立地していることもあり、早くから認知症の予防と、認知症の人にやさしい地域づくりに取り組んできました。
また、認知症条例の制定に先立つ2017年9月に愛知県が策定を公表した「あいちオレンジタウン構想」において、大府市が隣接する東浦町と共にモデル地域に選ばれたことも、他の自治体をけん引するような新たな取組を進めていく気運の高まりにつながりました。
2007年、市内在住の認知症の人が電車に撥ねられて亡くなるという事故が発生したことも、条例制定のきっかけとなっています。ご家族の監督責任をめぐって最高裁まで争われたことが社会的に大きな注目を集めたこの鉄道事故が、認知症の人やご家族が地域の中で安心して暮らすため、認知症に対する更なる取組の必要性を私たちに突き付けたのです。
大府市で起きた認知症男性の死亡事故は、「認知症の人が安心して暮らせるまちづくり」を考える上で重要な意味を持っているように思う。あらためて当時の事故を振り返ってみたい。
2007年12月、大府駅の隣の共和駅において、当時91歳の男性が線路に降り、電車に撥ねられて死亡した。男性は長年認知症を患っており、デイサービスなどを使いながら在宅介護の生活を送っていた。男性は84歳の妻と夫婦で暮らしており、長男の妻が介護のために近所に住み、東京に勤務する長男は週末だけ大府市に帰る生活を送っていたという。
事故から半年ほど過ぎた頃、JR東海が家族を相手取り720万円の賠償請求の裁判を起こした。事故に遭った男性が認知症を患っていたことを家族は訴えたが、「家族に監督責任がある」として2013年の一審判決では被告側の全面敗訴となった。
しかし、判決を不服とする家族は最高裁まで争い、事故から約8年後の2016年3月、ついに「家族に責任はない」とする最終判決が降りたのだ。この一連の裁判は、認知症の人が事故を起こした場合、家族に賠償金が請求される可能性があることを世間に知らしめ、社会的に大きな関心を集めた。
裁判の争点となったのが「家族の監督責任」だが、そもそも認知症の人を完全に監督できるものだろうか? 事故に遭った男性の家族は、普段から散歩に付き添うようにし、夜間に出歩かないように玄関にセンサーを設置したり、衣服に名前と連絡先を縫い付けたりといった対策も施していた。ところが、同居する妻が数分目を離した隙に男性は1人で外に出かけ、事故に遭ってしまったのである。
これで監督責任を怠ったとされるなら、認知症の人を家に閉じ込めるか、四六時中、見張っているしかない。家族の負担もさることながら、認知症の人にとっても辛い状況だ。これでは認知症の人が暮らしやすい社会とは言えないだろう。この一連の裁判を受け、大府市ではどのような問題意識を持っただろうか?
大府市担当者
これまで大府市では、認知症の人をはじめ誰もが安心して暮らしていけるまちづくりを目指して、さまざまな取り組みを進めてきましたが、まだまだやるべきことは多いとあらためて認識させられました。
言葉ひとつとっても、認知症の人に対して「徘徊」という言葉がよく使われますが、その意味は「目的なくうろうろと歩き回ること」です。しかし、認知症の人もなんらかの目的があって出歩いているはずですので、大府市では「ひとり歩き」など、適切な表現への言い換えを進めています。そうすることで、少しでも認知症の人に対する誤解や偏見を取り除いていきたいと考えています。
認知症の人のひとり歩きの対策としては、条例制定後、「認知症高齢者等事前登録制度」と「認知症高齢者等個人賠償責任保険事業」を実施しています。
「認知症高齢者等事前登録制度」は認知症の診断を受けた方、または認知症の疑いのある方で判断能力の低下により行方不明になる可能性がある方を対象に実施しており、事前登録情報を活用することで、行方不明時にスムーズな捜索活動、早期発見が期待できる制度です。
また、「認知症高齢者等個人賠償責任保険事業」は、事前登録者が保険に入ることで、日常生活における偶然な事故でご家族等が損害賠償責任を負った場合などに、保険金の支払いを受けることができる制度です。大府市が保険会社と契約して保険料を納めているので、認知症当事者やご家族の負担は一切ありませんし、万が一、賠償請求されるようなことがあっても、経済的損失が出ないようにしています。
大府市が制定した認知症条例では、3つの基本理念を掲げている。
①認知症を正しく理解して、認知症の人やその家族の視点に立って取り組むこと
②認知症の人をはじめ、誰もが安心して暮らすことのできる地域社会の実現を目指すこと
③市民、事業者、地域組織、関係機関、そして市がそれぞれの役割や責務を認識し、互いに連携すること
認知症の人の事前登録制度と個人賠償責任保険制度は、基本理念②に対する施策と考えられるが、他にも認知症条例の理念に沿ったさまざまな施策が実施されている。具体的かつ現実的な対策が多く、熟考の上で実施されていることが感じられるが、条例が制定された2017年当時は、参考となるような前例もなく、施策を1つ作るにしても手探りの状態だったそうだ。
大府市担当者
「当時は認知症基本法のようなスタンダードもなく、前例のない条例でしたから、どのような理念を中心に据えるべきか、実効性を持たせるためどこまで具体的な施策にすべきか、当時の担当者たちは徹底的に議論したと聞いています。
条例を制定する際、市民からパブリックコメントを募ったのですが、批判的な意見はなく、「こういった施策に取り組んでほしい」といった好意的な意見が多かったようです。市内に立地する長寿研や大府センターとともに認知症予防や高齢者にやさしいまちづくりに先進的に取り組んできた地域であることが市民の誇りとなっており、大府市が全国に先駆けて認知症条例を制定した際も、多くの市民が条例制定に期待し、一緒に盛り上げていこうと考えてくれたのだと思います。
その後、国をあげて認知症の対策に取り組むようになったことを思うと、大府市がいち早く条例を制定したことは、大きな社会的意義を持つように思う。これについては、どんなふうに受け止めているのだろう?
大府市担当者
条例を制定するにあたり、大府市だけが認知症に対して不安のないまちになればいいと考えていたわけではありません。大府市の取組を発信していくことで、日本全国ひいては世界中に同様の活動が広がり、誰もが安心して暮らしていける社会になっていくことも見据えていました。
実際に大府市が条例を制定した1年後、愛知県が「愛知県認知症施策推進条例」を制定するなど、認知症条例が他の自治体に広がっていったことをうれしく思います。
そして2023年6月には、認知症の人を含む全ての国民の共生社会を目指した「認知症基本法」が国会で成立しました。認知症に対する大府市の小さな1歩が全国に広がっていったように感じられ、感慨深く思っています。
大府市では、他にもさまざまな施策を実施している。そのひとつが、認知症の発症を遅らせ、発症後の進行を緩やかにすることができる、「認知症予防」の取組だ。
大府市担当者
大府市では2010年から、長寿研と連携して「認知症不安ゼロ作戦」を展開し認知症予防の研究に協力してきました。こうした知見から長寿研が開発した認知機能の低下やフレイル等の検査を短時間で行う仕組みを活用し、高齢者を対象に「プラチナ長寿健診」を実施し、認知症の早期発見に努めています。なぜ早期発見が重要かというと、認知症の前段階とされるMCI(軽度認知障害)の段階では、健康な状態に戻る可能性もあるからです。
認知症の予防においては、適度な運動と知的活動・社会活動が大切とされている。そこで大府市は高齢者に歩数計を配布して歩くことを推奨し、歩数や知的活動を記録してもらうように呼びかけている。この記録に使われるのが、認知機能に関するさまざまなチェック項目からなる「コグニノート」だ。
大府市担当者
プラチナ長寿健診受診者には、健診結果説明時にコグニノートを配布しています。コグニノートには、日々の歩数のほか、活字を読んだりパソコン操作をしたりといった知的活動、人と会って会話をする、集まりに参加するといった社会活動を記録していきます。
大府市担当者
市役所や公民館など市内11ヶ所にコグニノートの読み取り機を設置し、日々の記録を長寿研に送信すると、長寿研からレポートと励ましの言葉が送られてくる仕組みです。ご本人が継続的に取り組む動機付けになると同時に、コグニノートの記録を長寿研の研究に活かしていただくという循環型の事業になっています。
そのほか、長寿研が開発した「コグニサイズ」という頭と体を使った運動をお勧めしています。しりとりや簡単な計算などの認知課題に取り組みながら、踏み台昇降やステップなどの軽い運動をするものですが、脳の活動を活発化し、認知症の発症を遅らせる効果が期待されています。介護予防教室「健康長寿塾」で実施しているほか、みんなで楽しみながら認知症の予防に取り組もうと、市内ではたくさんの自主グループが活動しています。
認知症に対する不安のないまちづくりの一環として、大府市では「普及啓発」にも力を入れている。多くの市民に認知症を正しく理解してもらい、行動変容につなげるための活動だ。そのために力を入れてきたのが、「認知症サポーター」の養成だ。
大府市担当者
2018年から認知症サポーター養成講座の受講者2万人を目指して取り組み、2022年に2万人に到達しました。2万人を達成できたのは、市内の小中学生に受講してもらったことが大きかったと思います。中学校に関しては、中学1年生は受講を必須にしていただきました。小学校は必須ではありませんが、多くの児童が受講してくれました。
大府市担当者
子どもたちは素直な気持ちで受講してくれますので、その日から認知症の人への対応が変わったり、祖父母の認知症のサインにいち早く気づいたりといった変化が見られたそうです。彼らはこれから社会の中心になっていく世代ですから、小中学生が認知症を正しく理解することは、とても意味のあることだと考えています。
小中学校だけでなく、老人クラブなどで認知症サポーター養成講座を開いたり、大府市の職員が小売店や金融機関に出向いて受講を呼びかけるといった活動にも力を入れたことで、2万人を達成したのである。人口9万3千人ほどの街で2万人というと、21%以上にもなる大変な数だ。こうした活動が評価され、2022年11月には厚生労働省の「健康寿命をのばそう!アワード」で、大府市は厚生労働大臣賞を受賞している。
大府市では、認知症のご本人やご家族が、地域の人や専門家と交流できる「認知症カフェ」を市内10ヶ所に設け、認知症の人のコミュニケーションを支援している。さらに「コスモスクラブ」という交流の場を設け、認知症の当事者とその家族の孤立を防ぐようにしているそうだ。
大府市担当者
「コスモスクラブ」は認知症の人が家に閉じこもりがちになるのを防ぐだけでなく、ご家族の方にも参加いただき、介護する人同士の交流の場にもなっています。
クラブの活動時間には前半部分と後半部分があり、前半部分では当事者と家族がそれぞれ分かれてミーティングを行います。ご家族が介護の悩みや辛さを感じていたとき、同じ状況の人に話を聞いてもらうだけで、だいぶ気持ちが楽になるものです。先輩から適切なアドバイスをもらえたという声も聞きます。
後半部分では、認知症の人と家族が一緒になってグランドゴルフやボッチャなどのレクリエーションを楽しみます。認知症を発症すると、ケアされる側とケアする側に分かれてしまいがちですが、一緒にレクリエーションを楽しむことで以前の雰囲気を少しでも取り戻していただけるとうれしく思います。
このように大府市では、さまざまな角度から認知症に対する不安のないまちづくりに取り組んでいる。では、条例の理念のひとつである「市民の連携」については、どのように取り組んでいるだろう?
大府市担当者
認知症の人がひとり歩きをして家に帰れなくなったときに備え、大府市では独自のネットワークを築いて捜す体制を整えています。その一つが、市民1,100人ほどが登録する大府市のメールマガジンによる協力の呼びかけです。7千人ほどが登録する防災メルマガでも同様の情報を配信しているので、合わせて8千人以上に協力を呼びかける仕組みになっています。さらに公共施設や協力的な団体にFAXを一斉配信したり、防災無線で情報を流したりするなど、さまざまな方法で市民の協力を呼びかけています。
また、大府市には10の自治区があるのですが、ご家族が望めば各自治区に協力を依頼し、地域の方々が捜索を手伝ってくれる場合もあります。自治区の方々も行政から言われたからそうしているということではなく、「自分たちの仲間がいなくなったのだから、みんなで解決しよう」と真剣に捜してくれます。いざというときすぐに行動できるよう、定期的に訓練を実施してくれているほどです。
市民が主体的に認知症の問題に取り組むようになったのも、大府市が積極的に啓発活動を続け、市民の意識を高めていったことが大きかっただろう。「認知症の人が安心して暮らせるまちづくり」は、行政の力だけで実現できるものではなく、やはり市民の協力が不可欠なのだ。あらためて認知症の人への接し方や心がまえについて求められることを聞いた。
大府市担当者
認知症の母親の介護をしている市民の方とお話しした際「気負わず話しかけてほしい」と言われていたのが、とても印象に残っています。
認知症の当事者とご家族にとって、認知症であることを伝えたことで周囲の態度が変わるのは、寂しいものです。以前と同じように接してくれたり、気軽に声をかけてもらったりするだけで、心の負担は軽くなると思います。
認知症サポーター養成講座でも認知症の人への接し方をレクチャーしていますが、少し知識があるだけでも気負わずに接することができるようになるものです。認知症を正しく理解する市民が増えていくことで、より認知症の人が暮らしやすい地域になっていくのではないかと思っています。そのためにも啓発活動や情報発信を続けることが、私たちの使命だと考えています。
認知症について正しく理解してもらい、誤解や偏見を取り除くことは、同時に認知症の予防にもつながるものだという。なぜなら認知症に対する偏見が、認知症の発症を周囲に伝えることをためらわせ、本人から早期発見や早期治療、地域のサポートを遠ざけてしまっているケースも考えられるからだ。
長寿研や大府センターといった国立研究機関と連携していることもあり、大府市の認知症に対する全方位的な取組には感服する思いだった。今後、大府市の施策を参考にして、認知症の問題に真摯に取り組んでいく自治体が増えていくことを期待したい。
週刊求人誌、月刊カルチャー誌の編集を経て、2000年よりフリーランスのライター・編集者として活動。雑誌、書籍、WEBメディアなどでインタビューや取材記事、書評や企画原稿などを執筆。カルチャー系からビジネス系までフィールドは多岐に渡り、その他、生き方ものや旅行記など幅広く手掛ける。全国津々浦々を旅することがライフワーク。著書に矢沢ファンを取材した『1億2000万人の矢沢永吉論』(双葉社)がある。
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