『スゴ本』中の人が選ぶ、「正しい死に方とは何か?」を考える4冊

スゴ本

生きているものは死ぬ。これは確定している。

一方、頑張りと工夫と諦めによって、自分の人生をより良いものに変えることはできる。

つまり、死ぬことは決まっているが、そこまでどのように生きるかは、まだ決まっていない。死は避けられないが、生き方を選べるように、死に方も選べる。

もちろん運の要素もあるし、100%望んだ死に方ができるかどうかは、分からない。だが、必ずしも望んだ通りにならないのは、生き方だって同じだ。

仕事や生活、ひいては人生の質(Quality of Life)を上げる工夫を「ライフハッキング(LifeHacking)」という。同様に、死の質(Quality of Death)を上げる工夫を「デスハッキング(DeathHacking)」と呼ぼう。

ここでは、現代における死について考える縁となる本を紹介しつつ、デスハッキングのアイデアを検討する。

ただし、ご注意いただきたいのは、検討の対象は、あくまでも「わたしの死」であること。

わたしが、自分の死について考えたことであり、それがそのまま読み手である「あなた」に当てはまるとは限らない。一般化できる点もあれば、わたし個人に留まるものもあるだろう。それは、生き方についての話と同じだ。

「良い死」=ピンピンコロリ?

まず「良い死」について考えてみよう。

歳を重ねても達者でピンピンしていたが、ある日、あっという間もなくコロリと死んでしまう、いわゆる「ピンピンコロリ(PPK)」という死に方だろうか? 「ぽっくり逝く」という言葉で、一種の理想のように扱われている。これは、良い死に方だろうか?

この、人生のあっという間感は、在原業平がうまく歌にしている。古今和歌集のこれだ。

つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを

誰もが最期に通る道と聞いてはいたけれど、まさか自分にとって昨日今日だったとは思いもしなかったよ、と嘆く。病を得て気弱になっている様子を詠んだ歌だが、PPKだと、悠長に歌を詠む時間すらない。

元気な高齢者がいきなり死ぬといったら、代表的な原因は心筋梗塞や脳出血、脳血栓などだろう。気づいたときにはクリティカルな状況で、手遅れだったというやつ。

要するに、突然死である。

突然死の場合、家族や親しい人とお別れの挨拶をしたり、死に水を取ってもらう時間はない。身の回りの整理をしたり、あらかじめ伝えておきたいメッセージを誰かに残したりするのも難しい。一人暮らしで突然死なら、孤独死になる。誰かに見つけてもらうまで、そのままの状態になる。

さらに、犯罪を疑って警察が介入するかもしれない。死ぬほうにとってみれば、「えっもう終わり!?」と思う時間すらなく、死なれる側にとってみれば、悔いが残る死に方だろう。

わたしは「後悔しないように生きる」ことを理想としているので、「後悔しないように死ぬ」ことも目指したい。お別れの前に、お世話になった人に、ありがとうと伝えたい。そして、できれば自分の人生がどんなものだったかを、家族や友人に伝える猶予が欲しい。

そんな猶予もなく、言葉もなく、突然、人生が断ち切られるように死ぬのは、少なくともわたしにとって、「良い死」ではない。

現代の死に方に見る「良い死」「悪い死」

では、そもそも「良い死」とか「悪い死」といった、死に方に良し悪しはあるのだろうか?

現代の死に方』(シェイマス・オウマハニー著、国書刊行会、2018年刊行)によると、その答えは「ある」になる。

上々の人生を送ってきたのに、最悪の死に方をする人もいるし、悲惨な人生だったが最期は安らかだったという人もいる。総合病院の医者である著者は、さまざまな死を扱っているうちに「死に方を助言することは、生き方を助言するくらい難しい」という結論に達した。

にもかかわらず、著者が本書を著したのは理由がある。現代は「悪い死に方」があまりにも多いのだ。本書は、法のもとに医者が死を管理する「死の医療化」が、自律的で安らかな「良い死」を阻害している実態を、まざまざと見せつけてくれる。現代において「どんなふうに死にたいか」と「どんなふうに死ねるか」は、まったく別の問題なのだ。

例えば、長い慢性病の末に死ぬケース。病によって知力と意思疎通の能力が失われ、食事、着替え、トイレといった日常動作さえ介助が必要になることもある。食べる、飲むという楽しみは、遠い記憶となっている。最後まで自宅で過ごせる可能性は低く、ホスピスに入れる可能性はさらに低い。

そうして長い衰弱の後に、死は突然訪れる。処置室では知らない人間に囲まれ、鎮静剤を与えられて苦痛はなく、意識もなく、家族や友人に別れを告げる機会もないかもしれない。

おそらく、著者が見てきたこのような死に方が、いまの「現実的な死に方」なのだろう。

著者は「安楽死」や「尊厳死」はアテにならないという。死にかかっている人はあまりに疲れ、消耗しており、「尊厳死」するほど「崇高」ではないそうだ。それどころか、極めて強い生存本能によって、元気なうちは生きる価値がないと思っていた人生に、しがみつく可能性がある。

そして医者は、自律的で安らかな「良い死」の処方箋を書くとは限らない。家族から「できるだけのことをしてください」と言われたら、医者である立場上、そうしないわけにはいかない。「できるだけのこと」を尽くすほど、「良い死」から離れてゆくことになる。

家族や周囲の人たちは、死に行く人を「がんばれ」「(まだ)大丈夫」と励ます。嘘をつくのは、希望を失わせない善意からだ。死が近い人間は、芝居じみた虚偽の世界に住むことになる。その結果、「希望を失わせない」アリバイづくりのために無益な医療が押し付けられ、しなくてもいい苦痛を味わい、惨めな思いをしながら死んでゆく。

医者が薦める死に方

本書では、医者である著者がお薦めの死に方を提案している。

紹介されているのは、2003年にアメリカのジョンズ・ホプキンズ大学が医療関係者に対して実施した「自分自身がどのような終末医療を希望するか?」というアンケート結果だ。内容は下記の通り。

  • ほぼ全員が、終末期医療についての事前指示書を所持
  • 大多数の医者は、心肺蘇生、大手術、胃ろうを希望しなかった
  • 全員が鎮痛薬、麻酔薬を希望

わたしが死ぬのは1回だけのつもりなので、これらのデスハッキングを何度も試すことはできない。だが、数多くの死に立ち会ってきた医者たちが望む死に方だと考えると、説得力がある。

そして大変興味深いことに、「良い死」として医者が薦める死に方は、当の医者が患者に施している方法と、全く異なる。すなわち、医者は、自分に対してやってほしくない医療を、患者に対して行っているのである。

さらに著者は、自分に対しやってほしくない医療として「胃ろう」を取り上げる。

手間と時間とお金(労働力)をかけ、高齢者にひと口ずつ食べさせるよりも、胃までチューブを通し、直接栄養分を流し込む方が、ずっと楽だ。だが、著者は終末期患者への胃ろうに反対を唱える。

“胃ろうは衰弱した終末期の高齢者の食事問題の解決に魅力的に見えるが、誤嚥性肺炎や、下痢、チューブからの漏れ、感染症などの慢性的問題の他にも、方法そのものの危険が大きい。さらに重要な点は、食べるという人間のごく普通の行動を医療介入に任せ、その単純な楽しみを患者から奪ってしまうことだ”

そして、胃ろうは、患者のためというよりも、むしろ家族と医者の感情的&経済的な問題を解決するためだという結論をぶっちゃける。医者の本来の仕事は病気の治療だ。しかし、死をタブー化して社会から隠そうとした結果、人生の扱いにくく解決不能なごたごたが、医者に押し付けられているのが現実である。著者はアイルランドの医者だが、同じ微妙な事情は日本でも同じだろう。

「寝たきり老人」が日本にはいて、欧米にはいない理由

欧米と日本の「死に方事情」を比較したのが『欧米に寝たきり老人はいない』(宮本顕二・宮本礼子著、中央公論新社、2015年刊行)だ。

タイトルの「欧米に寝たきり老人はいない」理由は簡単で、「寝たきりになる前に、延命治療を拒否して死ぬから」だ。しかし「延命治療を拒否する」ことが一般的になった経緯は、単純ではない。

本書によると、数十年前までは欧米でも日本と同様、終末期の高齢者に対し、濃厚医療が普通だった。医者は「できるだけ生かす」ことに注力し、死にゆく人が何を望んでいるかは二の次だった。

しかし、この「無理やり生かすやり方」が倫理的でないという考えが広まり、終末期は「食べるだけ・飲めるだけ」で看取られるのが社会常識になったという。金の切れ目が命の切れ目、高齢化社会に伴う医療費の増加が、配分の見直しを促したことも考えられる。しかし、こういった考え方が欧米では広まっても日本では広まらない理由は、単に「宗教観や人生観が違うから」というわけではないらしい。

著者の宮本夫妻は、まさにこの問題に直面している医者だ。「yomiDr.」でのブログ連載「今こそ考えよう 高齢者の終末期医療」をベースとした本書は、単なる欧米礼讃・日本批判に閉じない。日本の医療システムが終末期医療の現状を問題化させないようにしている動機として、寝たきり老人を量産することが、医者と家族双方の利益にかなっていることを指摘する。

すなわち、日本の「延命医療主義」の裏には、医療関係者と高齢者を抱える家族との、いわば共犯関係があるというのだ。

人は必ず死ぬ。当たり前だと分かっていても、いざ親の死に直面した家族は、本人の意志に関係なく、延命措置を強く希望するのが常だという。医者は家族の要望に沿うべく「できるだけ生かす」ことに尽力する。

また、急に体調を崩し、救急車を呼んだところから、すでに寝たきりへの道は用意されていると言ってもいい。

調子を崩した高齢者が救急車で運ばれるのは、その多くが救急医療体制を備えた急性期病院(急性疾患や重症な患者の治療を主とする病院)だという。急性期病院では在院日数が長くなると診療報酬が減るため、退院に向けた患者へのプレッシャーは強くなる。回復の見込みがない高齢者は、長期入院の受け入れ先を探すしかない。

長期入院の受け入れ先では、手間の掛かる食事介助に充分な人手がないため、胃ろうが条件となる。このような現場では「延命措置」の是非について話されることは少ない。ぎりぎり切羽詰まった状況において、医療は一種の流れ作業にならざるを得ず、内心では疑問に思っていても、議論する余裕がないのが実情らしい。

さらに、他にも濃厚医療を行わざるを得ない理由があるという。病院ではベッド数を簡単に増やせないため、診療報酬が高くなる中心静脈栄養や人工呼吸器装着を行うことで、単位あたりの"利益"を増やす経営判断が働く。

また、たとえ延命を希望しないという患者本人のリビング・ウィル(終末期医療についての文書による意思表示)があったとしても、日本で法制化されていない以上、延命措置を怠ったとして遺族から訴訟を起こされる可能性がある。病院側はリスクを回避するため、濃厚医療を選択するのだ。

こうして、悲しみを先送りしたい家族と、利益を最大化・リスクを最小化したい医療関係者の都合が優先され、当の本人の意思は二の次にされる。

ポルスト(POLST)というデスハッキング

この状況に対し、著者は、国民一人ひとりが考え、行動することが必要だと訴える。

具体的には、「生命維持治療のための医師指示書(Physician Orders for Life-Sustaining Treatment)」の作成を提案する。この指示書は頭文字を取ってポルスト(POLST)と呼ばれ、終末期の治療方針が明確に記されている。

  • 心肺停止時の蘇生
  • 脈拍・呼吸があるときの積極的医療
  • 抗生剤投与
  • 人工栄養

などを受けるかどうか、事前に患者本人と医者が相談して決め、記しておく。医者の署名があるポルストは、患者個人の意思表示であるリビング・ウィルより強い効力を持つ。いざというとき、救急現場の医者にこれを見てもらい、治療方針に迷うことがないようにしておくのだ。

ポルストについては日本臨床倫理学会のPOLST作成指針が詳しいが、カリフォルニア州が内容理解のための資料として用意しているPOLST用紙の日本語版PDFが分かりやすい。デスハッキングとしては、今すぐ眺めておいて、「自分はどこにチェックを入れるか」を決めておくことをお薦めする。

先生ご自身がこうなられたら、どういう処置を望みますか

医者では言えない立場からのデスハッキングは、『医者には絶対書けない幸せな死に方』(たくきよしみつ、講談社+α新書、2018年刊行)が役立つ。

先に挙げた「医者が薦める死に方」はあくまでも方針だ。そしてポルストを準備しても、治療方法について医者から決断を求められたらどうするか? それも、自分のことならある程度覚悟はできているが、家族の終末期の治療や処置において、判断を求められたらどう答えるか?

それはこうだ、「先生ご自身がこうなられたら、どういう処置を望みますか」と聞く。家族の場合なら、「先生のお母様がこうなられたら~」と置き換える。

「医者が薦める死に方」を思い出してほしい。医者は、自分自身に対してやってほしくない治療や処置を、立場上、患者にしなければならない場合がある。だから、その立場からいったん降りてもらい、ひとりの個人として答えてもらうのだ。そうすることで、(医者としては)言いにくいことも、伝えやすくなるだろう。

医療関係者や宗教関係者が死に方について書いた本は多いが、本書はどちらの立場でもない。著者は認知症になった親の介護に苦労した経験を持つ作家で、金も時間も使い果たした末につかんだ、介護保険や介護施設の裏事情を書いている。

生々しい話や、壮絶なものもある。「お金はないが、楽な死に方としての凍死」も提案されている。金があれば幸せな死が迎えられるかというと、そうでもないのだ。デスハッキング集としてチェックしておこう。

「安楽死」の値段

最後は「安楽死」について。繰り返すが、これは「わたしの死」について考察する話だ。「苦しまないと死ねない老人」といった社会問題としてその是非を問おうとすると、厄介なことになる。

安楽死の問題については、安楽死先進国の実態を紹介する『安楽死・尊厳死の現在』(松田純、中公新書、2018年刊行)が詳しい。「死の医療化」と呼ばれる、オランダやベルギー、スイスや米国での安楽死の現状と、そこから浮き彫りにされる問題は、そのまま日本に当てはまる。

安楽死で死ぬためにいくらかかるか?  安楽死を引き受けるスイスの民間団体「ディグニタス」によると、以下の通り。多くは自国の法整備で手一杯だが、外国籍の人も受け入れているスイスの例は、珍しいといえる。

  • 入会金 200スイスフラン(約2万2千円)
  • 年会費 200スイスフラン(約2万2千円)
  • 自殺の準備費用 4,000スイスフラン(約44万円)
  • 自殺の介助費用 2,500スイスフラン(約27万円)
  • 遺体の処理と手続きには、さらに追加料金

本書で紹介される事例のうち、目を引いたのが「死ぬ理由」である。かつて自死を望む理由は、治癒の見込みのない病による苦痛が主なものだった。しかし、2000年にオランダ地方裁判所が「老いの苦しみ」も自死への介助の理由となり得ると判示し、前例となっている。

つまり国によっては、肉体的な苦痛がなくても、精神的な苦痛、生きる意味の喪失、自律・尊厳の喪失、周りに負担をかけたくないという理由で自死を選ぶことが可能となっている。

また、安楽死を希望する人は、高学歴者に多いという指摘も興味深い。社会的・経済的に不利な立場にある人よりも、むしろ優位にある人ほど安楽死する件数が多いというのだ。

「死ぬ義務」が発生する恐れ

しかし、ここに大きな問題が見える。

安楽死を公共政策化すると、障がいなどを抱えた弱い立場にある人が、本人の意思に反して、家族や社会の負担とされ、死ぬことを促されたり強制されたりするような懸念が出てくる。

つまり、法制度による社会的圧力を受け、「死ぬ権利」が「死ぬ義務」へと転換する恐れがあるのだ。このような問題を「すべり坂」問題という。一度そこに入り込むと、あとは坂を滑ってゆくように、歯止めが効かなくなるのではないか、という懸念である。「まだ死なないの?」「いつ死ぬの?」などと、死を強制する「デスハラスメント」(デスハラ)がまかり通る恐れがあるのだ。

これに対し、法のもとで厳格に運用することで回避できるという人もいるが、そもそも自由意志・自己決定による安楽死がどこまで確実に運用できるのか、という新たな問題も出てくる。

例えば、重篤で意識障害やコミュニケーション不全となったとき、指示書に書かれた「生命維持を停止してほしい条件」を満たしているかどうか、本人に確認できない。あるいは、認知症になったら、症状が進行する前の指示書が優先されるのか、認知症となった状態の意思が尊重されるのかといった問題もある。

つまり、判断能力が衰えた患者を、あたかも判断能力がしっかりしているかのように扱い、過去の事前指示書の記載に基づいて、いま自己決定権を行使する(できる)と考えるのは虚構だというのだ。

死をハッピーエンドにするために

法や社会制度の整備には、まだ時間がかかりそうだ。

そうこうしているうちに、高齢者の医療費は雪だるま式に膨らみ、死ぬために苦悩する人がいたずらに時を費やし、楽に死ぬために100万円払える人がスイスに行くデス・ツーリズムが社会現象化するだろう。

そうこうしているうちに、わたし自身が自分の死を迎えることになる。

わたしは死ぬ。これは確定事項だ。だが、わたしがどう死ぬかは、わたしがどう生きるかと同じくらい、意志と運に左右されている。運の要素は天に任せるとして、ここで紹介した数々のデスハッキングをもとに、人事を尽くすつもりだ。

死はバッドエンドではない。「悪い死」こそがバッドエンドなのだ。そして、どんな死に方が「悪い死」かは、人による。「ぽっくりPPK」にしたい人、とにかく長く生きたい人、それぞれの生き方/逝き方を、考えてみるのもいいかも。ここで紹介したデスハッキング以外に良いものがあったら、ぜひ教えていただきたい。

死をハッピーエンドにするために。

良い死で、良い人生を。

編集/はてな編集部 

Dain
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