親子げんかをして絶縁状態になった父が認知症に。介護と看取りを経て、今僕が思うこと

お父さんと安藤さんの写真

親子仲が良くない場合に親の「介護」とどう向き合っていくかは、難しい問題です。

認知症のお父さんを介護し看取った経験を持つライターの安藤昌教さんは、お父さんとけんかをして絶縁状態のまま介護に関わることになったそう。複雑な思いを抱えながら介護に向き合い、正解のない「家族との関わり方」について考え続けていたといいます。

今度は新たにお母さんの介護が始まろうとしているという安藤さんに、お父さんの介護を通じて感じたことを振り返りながら、これから介護に関わる人に伝えたいことについてつづっていただきました。

安藤昌教(あんどうまさのり)といいます。1975年に愛知県で生まれて、高校を卒業するまで愛知に住んでいました。当時は自転車のことを方言で「ケッタマシーン」と呼んでいました。

今は神奈川県に住んでいて、自転車のことは「チャリ」なんてしゃれた呼び方をしています。普段は「デイリーポータルZ」というおもしろサイトで記事を書いたり、企業の広告を作る仕事をしたりしています。

いつもは主に人を笑わせるタイプの記事を書いているんですが、これから書く話は正直あまり愉快な話ではないです。認知症を患った父を家族で介護して、看取るまでのことを書きます。

この文章は読者の皆さんにとっては何かの気付きにつながることがあるかもしれませんが、僕にとってはこれから父の年齢に向かっていく自分に対しての、一つの指針というか、決意みたいなものになるのではないかと思っています。

ともあれ、いろいろありましたが、今は僕はわりと幸せです。

こうして時間がたってから振り返ってみると「あの時は大変だったけど、あれはあれで悪くなかったのかもな」と思えるようになりました。今まさに介護のことや家族のことで悩んでいる人がいたら、とりあえずその日だけ、その場だけでもやり過ごすことを考えてください。そうしたら明日は来るし、それを繰り返していると、最悪はいつか終わります。

家族にとって絶対的な存在だった父が、認知症になった

2022年2月、父は病院のベッドの上で、息子の僕に見守られながら静かに息を引き取りました。82歳でした。寒くて暗い夜だったことを覚えています。

父は市役所に勤める公務員でした。母が言うには、父はとにかく真面目な人で、誰からも尊敬されていたそうです。父は何より「世間体」を気にする人でしたから、家の外では母の言うように、誰もが認める「立派な人」だったに違いありません。

一方、家では家事や育児には興味を示さない、典型的な「昔の男」でした。息子の僕から見ると短気で保守的で、時に差別的な人でもありました。髪を染めたり派手な服を着たりしている僕の友だちを見ては「ああいうやつらとは付き合うな」と厳しい目で言いました。僕は父に叱られない範囲で髪を染め、家の外で派手な服に着替えていました。

室内に座る安藤さんのお父さん

家族にとって父は絶対的な存在だったので、家では誰も口ごたえすることはできませんでした。

そんな父が2018年の秋に認知症と診断され、要介護状態となったのです。

父を介護をする中で、家族の関係性が変わった

家族の中心であった父は、認知症を患ったことで威厳を失い、今度は家族から介護を受ける側に置かれたわけです。これによって、家庭内の関係性みたいなものがガラリと変わりました。

父が要介護になった時、意外にも一番やる気を見せたのが母でした。

お父さんが飲み物を飲むのをサポートするお母さん

後にも書きますが、母はしばしば、父との結婚を後悔しているような口ぶりで、僕たち子どもに話すことがありました。そんな母が、責任感に満ちた顔で、進んで父の介護を始めたのです。この時期の母は疲れてはいましたが、やる気に溢れていて機嫌がよかったように思います。

僕はできるだけ頻繁に愛知へ帰るようにして(まあ帰っても介護に関しては母が一人でやっているので、僕ができることはほぼなかったんですが)溜まった力仕事を片付けたり、母や姉から父の近況や愚痴を聞いたりしていました。

思えばこの期間が僕たちにとって、家族という関係性を再構築した時期だったように思います。

お父さんとお母さん

でも、この一時的な凪のような期間は、長続きはしませんでした。

この頃にはほぼ寝たきりとなっていた父の体は、みるみる衰えていきました。飲み込む力も弱くなり、食べた物が胃に入らず気管に入り、誤嚥(ごえん)性肺炎を起こして何度も病院に入院することになりました。

病室でのお父さん

親が認知症になる前にやっておきたかったこと

いまさらこんなことを考えても意味がないかもしれないのですが、父が認知症を患う前に、それが無理ならせめて初期の段階で、しておきたかったことがいくつかあります。

ただ、後悔といえば後悔なんですが、例えば時間を戻せたとして、あの時できなかったことを今ならやるかと言われたら、たぶんやらないんじゃないかと思います。だからここに書くのは、後悔というよりも、父に対する希望みたいなものなのかもしれません。

父と和解しておきたかった

僕が結婚したいと言った時、父は相手に会うこともなく反対しました。これをきっかけに僕と父とは初めてといっていいほどの激しい口論となり、結果、絶縁されることになります。

父とはそれ以来疎遠となったまま、僕には僕の家族ができました。

父はどう考えていたのか分かりませんが、絶縁を言い渡されてから10年がたち20年がたち、僕自身は、もう父に対する怒りや悲しみみたいな気持ちは感じていませんでした。だからといって、あらためて問題を引っ張り出してきて和解しようという気もお互いになかったのでしょう。ひっかかるけど立ち止まるほどでもない、互いに都合の悪い過去について、知らぬふりをしていた期間でした。

しかしそのまま父は認知症となり、僕のことを、知らぬふりではなく本当に忘れてしまいます。

常識的に考えれば、僕は父としっかり和解しておけばよかったのかもしれません。でも父も僕も、本心から自分の主張を曲げることはなかったでしょう。だとしたら表面的に和解することが、何か意味を持つのでしょうか。分からないです。

室内で椅子に座るお父さん

家のことを知って、もっと考えておけばよかった

子どもというのは、親が健在のうちは家のことなど深く考えないものなのかもしれません。わが家は特に経済的に裕福だったわけではないけれど、特別お金に困っていたようにも見えませんでした。だからこの家がどうやって回っているのか、僕たち子どもは考えたこともありませんでした。

父が亡くなって、最初は僕が銀行口座の後片付けや年金、保険なんかの手続きをやるつもりだったんですが、母に聞いても「何も知らない、分からない」の一点張りでした。どこにどの書類があるのか、いったい何から手を付けたらいいのか、全てを父の存在に頼り切っていた母は、実務的なことをまったく引き継いでいませんでした。

もろもろの手続きは古くからお世話になっている行政書士さんにお任せすることにしましたが、プロに任せるにしても家の現状を知っている人が誰もいなかったのはきつかったです。家のことは親に任せっぱなしではなく、家族である程度共有しておくべきだったのでしょう。

父のことを知っておけばよかった

今思えば、僕は父のことをほとんど理解していませんでした。

彼がどんな幼少期を送り、何を考え、何に興味を持って何を学んできたのか。これから何がしたいのか、幸せだったのか。そんな話をした記憶がまるでありません。

父は最後まで謎の人でした。一番身近にいるのに一番分からない大人だったように思います。きっと父も、僕のことをほとんど何も知らなかったんじゃないかと思います。

母と父と、姉も一緒に、もっと家族で話がしたかった。これは父ひとりに責任があるわけではなく、家族全員に努力が足りなかったことなんですが、今思えばこれが一番の心残りかもしれません。

母のことも知っておけばよかった

僕が子どもの頃、母はよく僕たち子どもに自分の不遇さを訴えていました。三人姉妹の真ん中に生まれ、まったく大切にされてこなかったこと。集団就職で愛知に出てきて苦労したこと。父と結婚して身の回りの世話をするだけの人生だったこと。

そんな話を母からたびたび聞かされていた僕は、子ども心に、母をなんとかしてこの不遇から救いだしてあげたいと思っていました。父なんていなくなればいい、そんなことを考えたことすらありました。

お父さんが立つことを介助するお母さん

しかし、父が認知症を患い亡くなるまでの時間をあらためて家族で過ごして思ったのは、母は自分の置かれた「不遇」から脱する気はなかったのではないか、ということでした。

母はずっと不幸だったのではなく、不幸であることを盾にして、それなりに居心地のいい場所に身を隠していたかったのではないでしょうか。

父と母とは共依存の関係でした。昔ながらの父親像とそれに従い支える母親像。そんなステレオタイプな、世間体のいい環境を捨ててまで、自分を貫き通す勇気はなかったんだと思います。いつか母を幸せな場所に救い出したい、と本気で考えていた僕は、単にそれが理解できていなかったんでしょう。

これから誰かを介護する人に伝えたいこと

僕が後悔したことを踏まえて、これから大切な人を介護するかもしれないという人に、アドバイスというのもおこがましいですが、お伝えできることをいくつか書いておきたいと思います。

それぞれの家族にそれぞれのルールがあるはずなので、これが正解というわけではありませんが、介護が必要になりそうな時、少し思い出してみてください。

自分を大切にしてください

親や家族はもちろん大切ですが、何より大切なのは自分だということを忘れないでください。自分自身を冷静に客観視できているか、どんなに余裕がなくても、これを常に考えてほしいです。

自分を大切にしている証に、介護にかける労力と同じか、それ以上に自分のことをねぎらってあげてください。これを言い訳に好きなことやるぞ、くらいの気持ちでいいと思います。僕は父を介護している間に新しいカメラを何台も買ったし(写真が趣味なんです)、病室で読むための本は買い放題というルールを設けました。

心というのはわりと単純なもので、どんなにつらい状況にいても、分かりやすく甘やかすことである程度復活できたりします。自分には何が一番効果的なのかは、自分が一番よく分かっていますよね。それを惜しみなく、自分自身に与えてあげてください。

周りの人に頼ってください

もう、頼れる人には全部頼るといいです。これはきっと、世間体を最優先にしてきた父にとっては不満だったかもしれませんが、今となってはそんなことを気にしなくてよかったなと思っています。

デイサービスでお世話になっていたケアマネさんにはいつも相談に乗ってもらっていたし、近所に住む母の友人や親戚のおじさんや、交番のおまわりさんにもたびたびお世話になりました。

特に近所の人たちは、困ったときにお願いすると嫌な顔ひとつせずに親身になって協力してくれました。交番のおまわりさんに、行方不明になった父を一緒に探してもらったこともありました(結局家の裏手の溝で落ちて動けなくなっていました)。本当にありがたかったです。

困ったときに誰かに頼るのは勇気のいることですが、決して恥ずかしいことではありません。恥ずかしいのは、体裁を気にして人を頼らずに失敗することでしょう。誰かに助けてもらったら、それを忘れずにおいて、次に困っている人を助けてあげたらいいと思います。

記録を残してください

僕は写真が趣味なので、病気をしてからの父の写真をとにかくたくさん撮りました。写真でなくても、日記やメモでもいいと思います。

今、自分と相手がどんな状態で、何を考えてこれからどうしたいのか。何を食べたのか、何を話したのか、触った手は温かかったのかそれとも冷たかったのか。何でもいいので、その時のことを形に残しておくといいと思います。

それは介護をしている時期には自分を客観視することにもつながりますし、後で見返すと、自分たちが乗り越えてきたものの大きさに気付くと思います。

最後に訪れた「許し」

父が病院に入院して寝たきりになってからは、介護といっても、僕たちにできることといえば横に座っていることくらいでした。

延命措置は施さないと決めたことで、父は最後の数カ月、点滴でのみ生きることになりました。まるで見えない小さな穴の開いた風船のように、徐々にしぼんでいく父を、僕たちは何もできずに眺めていました。

病室でのお父さんの腕

僕は介護休暇を取得して、しばらく会社を休ませてもらっていました。それでもおもしろ記事は続けて執筆していたし、夜中に病院の周りをジョギングしたりしていました。自分にとっての日常をこなすことで、安定を保っていたのかもしれません。

病院では父の枕元に座ってひたすら本を読んでいました。最後の夜、オルハン・パムクの『私の名は紅』という本を読んでいたのを覚えています。死人が語るという不思議な話でした(生きている僕の父はもう語らないのに)。外はもしかしたら雪が降っているのかもしれない、そんな静かで寒い夜でした。

亡くなる3日ほど前から父はずっと眠ったままの状態で、もういつ何があってもおかしくないと言われていました。疲れの見える母にはいったん家で休んでもらい、夜の時間は僕が父に付き添うことにしました。

夜の回診を終え、冷えているからと足元に湯たんぽを入れてもらった後、モニターにつながれていた心拍の波が不規則になり、血圧が徐々に下がっていきました。こうして目に見える形で人は死んでいくんだなと、僕はどこか冷静な気持ちでそれを眺めていたように思います。

最後の瞬間にも、僕は父に言葉をかけることができませんでした。命を手放そうとしている父の手をさすることしかできなかった。

あの時父に「ありがとう」か「ごめんなさい」か、何を言えばよかったんでしょう。家族の間には言語化できない感情というか空気みたいなものがあるように思います。

僕は父を看取った病室で、父と同じ空気を確かに共有できていました。あの時期、僕は父のことをあらゆる意味で許したように思います。父が僕のことをどう思っていたのかは、最後まで分からないままでしたが。

これから、母の介護とも向き合う中で

父が亡くなって2年が過ぎ、今度は母が認知症と診断されました。

まだ初期の段階なので、今のところ生活に大きな支障はないのですが、進行の速かった父のことを思うと、あまりうかうかはしていられないだろうなと思っています。

これまで書いてきたように、あとから後悔の気持ちが残らないよう、親とはできるだけたくさん話をしておくことが大切だと思っています。そういう僕は今、母とも姉ともうまくいっておらず、送られてくる愚痴めいたLINEにもスルーしているような状態なんですが。

父の介護を経験して得られたはずの学びが、せまりくる母の介護に現時点ではまったく生かせていないというのは、もどかしい限りです。

***

最近ふとした瞬間に、父のことを思い出します。そういう時ってたいてい、自分の中に父に似たところを見い出した時なんですよね。このところ僕の声がかすれるようになったのも、晩年の父みたいだなと思って怖くなり、インターネットで「老化」「声が出にくい」なんて検索して、ふむふむと対策を勉強したりしています。

亡くなったはずの父が僕の中で存在感を増してきているんです。いまさらなんだよという気持ちと、負けないぞという気持ちと、少しうれしいような気持ちと、そんな複雑な思いを胸に、父の存在をこれまで以上に感じています。

空になったベッド

いろいろわが家のことを書いてきましたが、介護や家族のことに正解はないと思います。それでも人から話を聞くこと、聞いてもらうこと、日記やブログを書くこと、そういった「状況をいちど整理する」ことが、わりと大切なんじゃないかと思います。僕でよければいつでも話を聞きますので、悩んでいる人がいたら、僕宛に連絡をください。

筆者プロフィール
安藤昌教
安藤昌教 1975年愛知県生まれ。ウェブコンテンツや広告の制作をしています。猫好き。

編集:はてな編集部

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