書評家・冬木糸一が選ぶ、現代の「老い」と「死」を考えるノンフィクション作品5選

普段はSFやノンフィクションについてブログや雑誌で書評を書いている、冬木糸一と申します。

前回は本メディアにて、「『老い』を捉え直すきっかけをくれるSF小説」という題材でSF5作品を紹介させてもらった。それに続く今回は、「現代の老い」がテーマのノンフィクション作品、というテーマをいただいたので、急速に変容しつつある「老い」や「死」について考えるきっかけとなる5冊を紹介していきたい。

現代は一部を除いて、世界的に寿命が延びつつある時代だ。医療技術の発展によって我々はかつては治せなかった病を治し、死を先延ばしにできるようになった。ただ、健康で素晴らしい時間だけが増えるのであれば万々歳だが、誰もがそうした幸せな老後を享受できるわけではない。また、命の「先延ばし」はどこまでやるべきなのか、最後を決めるのは誰であるべきなのか、という問いかけも同時になされてきている。

というわけで今回は、医療技術の発展によって未来の医療や老いはどうなるのかという楽観的な未来予測。老いや終末期に伴う現代特有の苦しさや問いかけ。そして老いていく一個人のエッセイの紹介を通して、「現代と未来の老い」について概観してみたい。

老いは治療可能な病である『LIFESPAN(ライフスパン):老いなき世界』

2020年、大きく話題になったので知っている人も多いだろうが、最初に紹介したいのは、ハーバード大学医学大学院の教授で、老化研究の第一人者であるデビッド・A・シンクレアによる『LIFESPAN(ライフスパン):老いなき世界』だ。  

        

これまで長年、老化は全ての病気の起因となるものにもかかわらず、仕方のないことだ、と諦められてきた。だが、近年長寿に関わる遺伝子が発見され、その働きが解明されていくうちに、老化を止める道筋も見えてきたという。

著者シンクレアは、本書で老化は治療可能な病であると力強く宣言してみせる。それも、シンクレアが目指すのは、身体の衰えや苦しい治療とセットの平均寿命の延長ではなく、健康寿命の延長だ。21世紀中に人は120歳、130歳まで健康に生きる可能性もあると語る。

詳しい科学的な理屈については本書にあたってほしいが、著者は情報の損失こそが老化の本質だと語る。我々の身体は古いDVDのようなものであり、老化とはDVDの表面に付いた引っかき傷のようなものだ。現在、ヒトゲノムの解析により長寿に関連する遺伝子は20個以上見つかっているそうだが、これらを意図して活性化させることができれば、そうした「アナログな傷」を修復し、我々は健康な期間を延ばすことができるという。

こうした最先端の知見に加えて、本書の面白いところは、寿命が120歳、130歳まで延びたときに、社会の構造や体制はどう変わっているだろうか、と問いかけてみせるところにもある。年金などの社会保障はそのままでは成り立たないし、健康寿命が長くなった世界は純粋に喜ばしいことばかりが起こるわけではない──例えば覆せない格差など。この平等性について詳しくは、次の項目で述べてみよう。

医療の進化は平等か?『Beyond Human 超人類の時代へ 今、医療テクノロジーの最先端で』

もう一つ、未来の医療という観点で紹介しておきたいのがイブ・ヘロルドによる『Beyond Human 超人類の時代へ 今、医療テクノロジーの最先端で』だ。

本書で中心に扱われるのは、回復の枠を超えた視力増強や記憶力増強といった形で人間の本来持っている力を超越させる医療テクノロジーとその倫理的な課題である。例えば、失明した人の視力回復、アルツハイマー病患者の記憶力を回復させるような技術は、回復の枠を超え、人間の能力を向上させる目的で用いられる可能性が高い。

現在すでに、ナルコレプシー(過眠症)を治療するために作られた薬が、軍隊で隊員の覚醒と集中力を高めるために使われている。他にもアルツハイマー病治療として、脳にインプラントを埋め込み電気刺激を流すことで機能を回復させる実験も行われているが、こうした神経インプラント技術は、治療から転じて健康な人の脳を強化する、巨大なビジネスに発展するとみられている。『LIFESPAN』で述べられた寿命の延長もこの部類に入るだろう。

この話を聞き、人体を強化できるんだから素晴らしいじゃないか、と思う人もいるかもしれないが、そう単純な話ではない。確かに脳機能の強化や寿命の延長は素晴らしいことだが、それはまず間違いなく、最初は全員には行き渡らないからだ。つまり、金持ちのみ寿命が延び、知的能力が向上することで、金を持たない層がどれほど努力をしようとも絶対に覆せない格差が生まれてしまう可能性がある。

一方で、国の提供する保険によって医療の大半がまかなわれるケースが現在もあるのだから、エンハンスメントのための医療テクノロジーの提供もその範疇に含めれば多くの人がその恩恵に預かれる、という主張もある。ただ、その場合もどこまでが”平等に強化されるべき部分で”、どこからは”金で強化すべき部分なのか?”という別の問題が立ち上がってくることになる。

未来の医療について考えるとき、忘れてはならない生命倫理学に関する観点を教えてくれる一冊だ。

すぐそこにある「死」のリスク『もうダメかも──死ぬ確率の統計学』

冒頭立て続けに、がっつり未来の老いと医療について知るノンフィクションを紹介してきたが、少し視点を変えて「死」を身近にとらえるきっかけを与えてくれるのがマイケル・ブラストランドとデイヴィッド・シュピーゲルハルターによる『もうダメかも──死ぬ確率の統計学』だ。

我々はウルトラマンに守られているわけではないのだから、死ぬ時は死ぬ。しかし、自分が死ぬ可能性について多少なりとも意識したことはあれど、具体的に自分がいつ、何をしたときに、どれぐらいの確率で「死」の可能性にさらされているのか、正確に認識している人は少ないのではないだろうか?

本書では、特に疾患を持たない平均的な人間が普通に暮らした場合の1日における死亡リスク「100万分の1(0.000001%)」を1マイクロモート(MM)と仮定し、タバコを一本吸うこと、バンジーをすること、全身麻酔を打つことなどの死亡率を幅広く計算し、ありふれた物語とともに紹介していく。

例えば、平均的な人間が緊急性のない手術を行う際、全身麻酔が原因で死ぬ確率はおよそ10万分の1。これは本書の指標で言えば10MMにあたり、全身麻酔を受ける時あなたは10日分のリスクを引き受けることになる。

2010年、全世界で28万7000人の女性が出産で命を落としたが、これは2100MMに相当し、平均的な市民がさらされる1日の死亡リスクの約6年分に相当する。そう考えると、いかに出産がリスキーな事業か、よくわかるだろう。ほかにも、急性リスクを示すMMとは別に、慢性リスクを推定するために用いられる、30分ぶんの寿命を示すマイクロ・ライフという指標からは、1回のCTスキャン(10mvs)を受けることがタバコ約380本のリスクと同等であることなども指摘される。

また、ここまではあくまで平均的な人間を想定して説明を行ってきたが、年齢によって1日あたりの死亡リスクが変化することにも触れられる。例えば、18歳の若者にとっての1日の死亡リスクは1MMに満たない0.7〜0.8MMだが、60代付近の男性の場合、1MMをゆうに超えた20MM弱になる。そのため、7MM相当のリスクをおかす場合、若者にとっては約5日分と相対的に大きなリスクになるが、高齢者にとっては9時間分程度にしかならないことになる。そう考えると、相対的には老齢に入ってからの方がリスクをとりやすいともいえる。

このように、日々の行動における死亡率と、老いによるリスクの変化を頭に入れておくと、選択もまた変わってくるのではないか。スカイダイビングをするなら、若いときより年をとってからの方が(相対的なリスクだけを見るならば)いいかもしれない。こうした統計は「あなた」がどうなるかを教えてくれるものではないが、一般的なリスクを把握しておけば、正しく怖がることができるようになるはずだ。

終末期における究極の選択『死すべき定め――死にゆく人に何ができるか』

冒頭に紹介した「老いなき世界」という言葉と対象的な一冊が『死すべき定め』。現役の外科医アトゥール・ガワンデが、人の寿命が長くなったこの現代で、終末医療はどうあるべきかを自身の臨床経験や家族の思い出と共に描き出していく。

我々は大切な人が死に瀕している時、生きていてほしい、と願う。そして、現代の医療は優秀だから、終末期であってもできることはある。しかし、例えば本書のなかで描かれる患者の一人で、肺がんと甲状腺がんを患ったサラの治療は壮絶なものだ。

出産を控えていたサラは前向きで、がんの診断を受けてからもしばらくは明るく振る舞っていた。しかし、徐々にがんは体中、少なくとも脳を含む9箇所に転移し、化学療法による副作用も加わってどんどん衰弱していく。歩くことも喋ることも困難になり、酸素吸入が必要となり、さらには物が二重に見えて、手の感覚もなくなってくる。

ただ、ここまでいっても本人も周囲の人間も治療を諦めないし、実際にわずかながらできることもある。そのため、その後も一縷の望みに希望を託し、治療を続けるが、最終的にサラは肺炎を発症し、人工呼吸器につながれ、ボロボロのまま人生を終えることになる。

過酷な闘病を最後のその一瞬まで続けることによって生まれる可能性を、誰にも否定はできない。だからこそ本人も周囲の人間もその希望にすがりたくなる。だが、その奇跡のような可能性を望むことで、患者にとってはるかに安楽な終末期を手放すことになるのもまた事実。本書によれば、大切にしている人から望まれれば、本人としては受けたくない治療でも受けてしまう患者が三分の二程度いるという。問われているのは、患者の覚悟だけではない。

終末期の選択に絶対の正解はないが、今を生きる人に少なくともできることは、「自分や周囲の人間が死に瀕した時、どうしたいのか」をよく考えておくことであり、『死すべき定め』はそのためのきっかけを与えてくれる。いま読まなくてもいい。だが、人生のどこかで手にとってほしい一冊だ。

「老い」との付き合い方を学ぶ『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』

最後に紹介したいのは、『ゲド戦記』のようなファンタジーから『闇の左手』のようなSFまで幅広い分野で活躍し、2018年にこの世を去った作家ル=グウィンによる生前最後のエッセイ集『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』だ。

本稿ではさまざまな角度から「老い」について書いてきたが、いまを生きる我々は、何がどうしたところで、最後には一人の人間として肉体と精神の衰えと遭遇することになる。本書はル=グウィンの晩年のブログ記事をまとめたものだが、老いた人間がどのような態度と考え方で暮せばいいのか、多くのヒントが詰め込まれている。

例えば、彼女がかつて在籍したハーバード大学からの「余暇には何をしていますか?」というアンケートにたいしては、引退した人間にとっては全てが余暇であり、それは50歳のとき、30歳のとき、15歳のときにもっていた時間と何が異なるのか? と余暇についての考察を深めながら、最終的には次のように答えてみせる。

私の場合、余暇というものがどういうものなのか、未だわかっていない。私の時間はすべて、使われている時間だからだ。これまでもずっとそうだったし、今もそうだ。私はいつも、生きるのに忙しい。

『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』(ル=グウィン、河出書房新社)より

 また、「年齢は気持ちが決める」という常套句には、「あのね、八十三年生きてきたということが、気の持ちようの問題だと、まさか本気で思っているんじゃないでしょうね。」、と厳しく返答してみせる。

当たり前だが、年をとったら年寄りをやらなくてはならないのだ。記憶力は弱り、体のあちこちが大小の故障に見舞われる。それが「80代になること」であり、ル=グウィンはそうした現実を受け入れた上で、さあどう考えようか、衰えて残り少ないものを、どう活用すべきかと問いかけているのだ。

おわりに

未来の医療から、いま・ここの老いと死まで、さまざまな観点から老いについて考えてきた。未来は、きっと今よりもいろいろな病気が治せるようになり、寿命も延びるのだろう。だが、そこにはまたさまざまな問題が生まれることも事実。本稿で紹介した本を読むことで、老いと死にたいする解像度はぐっと上がるはずだ。

ちなみに紹介しきれなかった本として、奥真也による『未来の医療年表 10年後の病気と健康のこと』は、2040年までの病気と医療のロードマップを描き出していく一冊。がん治療や認知症治療薬、医療のAI活用などについての未来予測が紹介されており、自分が将来病気を危惧するべき年代になった時、どのような医療状態になっているのか、本書を読んで想像してみるのも有益だろう。

編集:はてな編集部

冬木糸一
冬木糸一

SFマガジンにて海外SFレビュー、本の雑誌で新刊めったくたガイド(ノンフィクション)を連載しています。 honz執筆陣。ブログは『基本読書』 。御用依頼感想相談苦情などありましたらお気軽にメールくださいな。対応致します。⇨huyukiitoichi@gmail.com

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