僕は20年以上、医者としてさまざまな「老い」や「病」に関わってきました。
研修医だった頃は、病室で戦時中の話を毎日1時間くらい聞かせてくれる患者さんの部屋の前で、ドアを開けるのをためらっていたのを思い出します。ああ、今日も長くなるな、って。
あの頃の頼りない僕は、きっと患者さんにとって、話を聞いてくれる孫みたいなものだったのでしょうね。「この腕で練習して、点滴が上手になってね」と、何度失敗しても笑って許してくれた人の顔を、今でも思い出します。
そんな僕も、今ではすっかり人生の折り返し点を過ぎ、高齢者の側、介護される側に近づいてきました。
日本の少子高齢化が容赦なく進んでいく中、高齢者の介護については「誰が、どんな形で担うのか」というのが大きな課題になってきています。
一昔前の日本では、息子・娘夫婦が親の世話をするのが当たり前だったわけですが、今は高齢の親を未婚の子どもが一人で介護しているとか、子どもがいなくて、老妻が自分も通院しながら夫を介護している、なんてことも少なくありません。緊急入院になった高齢者の子どもに病院から連絡したら「縁を切りましたから」と関わりを拒否されることも増えてきました。
いろいろな生き方が許容されるべきで、好きなことをしていい(やりたくないことは、やらなくていい)時代というのは、誰からも見捨てられる人が生まれやすい面もあるのかもしれません。
しかし介護がこんなに身近な課題になっているにもかかわらず、メディアで取り上げられるのは、その多くが「最後までしっかりと親を見送った孝行息子・娘」の感動的なエピソードや「悲惨な高齢者病棟や施設の現状」といった極端な例ばかり。
子どもが親を支えていく、という仕組みそのものが限界に達しているにもかかわらず、世の中の慣習や価値観はなかなかアップデートされないのです。
医者として長年、高齢の患者さんたちやそのご家族と接してきて、僕は「人生の目的が介護になってしまっている人」を大勢見てきました。
彼ら彼女らは、口をそろえて「自分を生んでくれた人だから」「ずっと世話になってきたから」「なんといっても、自分の親だから」と言うのです。そして、自分の仕事や生活を犠牲にして、介護に取り組む。人によっては、介護士や看護師などにひたすら「ダメ出し」をして、「とにかく自分じゃなきゃダメなんだ」とアピールしている場合もあります。
一方で、世間体を気にして在宅介護を選ぶ人もいます。モチベーションが上がらないまま、時間も手間もかかる介護を続けていくのはつらいものです。その結果として、仕事も家事も十分にできなくなり、生活が破綻してしまうことも少なくありません。
ソーシャルワーカーが調査のため、子どもと暮らす高齢者の自宅に行くと、ゴミ屋敷になっていることも多いそうです。また、ストレスから介護している相手にキツくあたってしまうケースもあります。
親子関係って、みんながみんなうまくいっているわけではないのですよね。それに、たとえ「自分の親だから、面倒を見たい」という気持ちがあっても、自分の親が認知症で理解不能の言動を見せたり、家中を汚したりしたら、受け入れるのはつらい。
僕自身も、昔は「親をずっと病院や施設に閉じ込めておくなんて、かわいそうだ」と思っていた側です。でも現場で長い間、そういう「介護によって壊れてしまった人や人間関係」を見てきて、考えるようになりました。
介護が罰ゲームになってしまって、毎日イライラしっぱなしになってしまう人は少なくない。だから、相手に優しくできない精神状態になってしまったり、自分では手に負えない、と感じたりしたら、なるべく速やかに、他者の支援を受けた方が良いのではないか、と。
これだけ人間が長生きする時代に親の面倒をちゃんと見ようとすると、40代以降ずっと親を介護し続け、それが終わったら今度は自分が介護される、という人ばかりになっていくはずです。それで本当に「自分の人生を全うしている」と言えるのか。
介護に押しつぶされてしまう人の多くは、「介護は子どもの義務だから」と思い込んでしまって、専門家に相談することもなく、厳しい状況でも「自分でできる」と言い張ってしまうのです。
介護は「できて当たり前のこと」なのだと思っている。あるいは、思い込まされている。
日本は社会保障の劣化が指摘されがちな国ですが、公的な機関にこちらからアピールすれば、実はかなり手厚くサポートしてくれることが多いのです。(逆に言えば、黙っていても向こうから手を差し伸べてくれる、という仕組みにはなっていません)
役場の福祉課、あるいは近くの病院のソーシャルワーカーに相談してみれば、なんらかの状況を改善する手段があるのだけれど、「まだ早いのではないか」とためらっているうちに事態は深刻になっていきます。
病気にしても、生活環境にしても、がんばり過ぎてにっちもさっちもいかなくなってから救急車で担ぎ込まれるよりは、難しいと感じた時点で早めに相談してもらった方が、相談する側もされる側も余裕をもって対処でき、良い状態を長い間維持しやすくなります。だから、「支援してもらうのは恥ずかしい」なんて思ってほしくないのです。
介護に慣れない人が「食べないと元気が出ないから」と高齢者に無理やり食べさせようとして誤嚥による肺炎を引き起こしたり、「歩かないと足が弱るから」となんとか立ち上がらせようとして、転倒・骨折につながったりすることは、珍しくありません。
どんなに愛情があっても、知識や技術がないと、不幸な結果を生むことは多いのです。だからといって、世の中の全ての人が、若いうちに体位変換や吸痰の技術を身に付けるのは現実的ではないでしょう。
なんだかまわりくどく書いてしまいましたが、介護する子ども、介護される親、そして医療機関にあまりにも高いハードルが課せられていて、追いつめられていく人たちに接するたびに、僕は悲しくなります。人が老いて、いろんな機能が失われていくのは自然なことだし、有史以来、死ななかった人はいない。食べ物がうまく飲み込めなくなったり、徘徊したりするのも、誰かが悪いわけではありません。
そんな介護の理想と現実の狭間に押しつぶされている人に会ったとき、僕の心の中のジャニー喜多川さんが、こうささやくのです。
「YOU、その介護、プロに任せちゃいなよ!」
もし自分が介護される側だったら、毎日修行のようなつらい顔をしている身内にお世話してもらうよりも、月に一度でも笑顔で面会に来てもらった方が幸せだと思いませんか?
冷たく聞こえるかもしれませんが、僕は「介護に全力投球するのに向いた人」って、そんなに多いとは思えないんですよ。義務だと思い込んで介護のために全てを犠牲にし、自分を見失って介護の対象者や社会を恨むよりは、プロに任せて自分の生活をまず大切にした方がいい。直接介護しなくても、お金を稼いで介護費用を負担するなど、サポートする方法は他にもあるのです。
もう、「子どもがそれぞれの親の介護を担う」なんて、よっぽど恵まれた人じゃないと無理なのです。家族で面倒を見るのがつらいなら、病院や施設でプロが環境を整えていく方がずっと「効率的」です。効率っていうのは嫌な言葉かもしれませんが、すごく大事なことです。
自宅での介護では、ベッドのシーツを替えるために、介護される人を抱え上げるだけでも大変です。介護する側が高齢者であればさらに転倒や転落のリスクは高まり、シーツ交換の頻度も減ってしまいやすい。
病院や施設ではスタッフが交替しながら40人のお世話をすることが可能でも、自宅では1人のお世話でさえ大変です。ちゃんと見ようとすると、家族は24時間気が休まりません。
効率を良くすることは、介護する側・される側双方にとってリスクを減らし、良い環境を維持することにつながります。
高齢者のご家族の中には「病院に迷惑をかけて……」と言ってくださる方がいます。確かに、いろんなトラブルは起こります。でも、医療や介護には「仕事」とか「産業」という面もあって、われわれはそれで給料をもらっているのです。だから、そんなに遠慮しなくても大丈夫。
もちろん最低限、着替えや生活用品くらいは定期的に持ってきていただきたい。あと、「病院や施設にいても、状態が悪くなったり、急変したりすることはある」ということを理解しておいてもらえるとありがたい。
家族と病院や施設のスタッフは「どちらが患者さん、入居者のためを思っているのかコンテスト」をやっているわけではありません。お互いに目的を達成するために、協力していけるはずです。
世の中でクローズアップされる介護のエピソードは、美談か悲惨な話になりがちです。でも現場では「そんなに介護に向いているわけでも、やる気満々でもない家族」がほとんどですし、それが「普通」なのだと実感しています。
介護って必要以上に美化されたり怖れられたりしているけれど、シンプルにいえば、なるべく清潔な環境で、少ないストレスで過ごしてもらうことなんですよ。それには「コツ」や「技術」がいる。介護は気持ちの問題だと思われがちだけれど、どんなに家族の愛情があっても、ゴミ屋敷に住みながら笑顔で暮らせる人は少数派でしょう。
「自分たちだけで抱え込まないこと」と「誰が悪いわけでもないし、介護は罰ゲームではないこと」だけでも、これを読んで心に留めておいていただければ幸いです。
実際、入院・入居している人たちが寂しそう、不幸そうに見えるかというとそんなことはなくて、近い世代同士で、けっこう楽しそうに暮らしておられますよ。
最後に、個人的な悔いを一つだけ。
僕の両親は二人とも50代で亡くなりました。ときどき、親が死んだ年まで、あと10年もないのだな……なんて数えてみることがあります。自分が40代後半になってみて、同じくらいの年齢のときの親は、僕よりもずっと「大人」だったのだなあ、とも。
僕は毎晩のように酔っ払って帰ってくる父親が苦手で、長い間、少し距離を置いていたのですが、最近「そういえば、父親はずっと『息子(僕)が酒を飲めるようになったら、一緒に飲みに行きたい。酒の飲み方を教えてやる」と言っていたなあ」と、子どもの頃の記憶がよみがえってくるのです。
若い頃はお酒を飲んでいる父親がすごく嫌だったのだけれど、今は「一度くらいは付き合ってあげたかったな」と思うようになりました。
人が人のことを許したり、感謝したりするのは、いつも手遅れになりがちです。だから、ちょっとめんどくさいな、というときでも、大事な人には伝えやすいうちに、言葉や行動で伝えておいた方がいい。
介護で取り戻そうとするよりは、一つでも多く、大切な思い出を作れるときに作っておく。それが正解かどうかは分からないけれど、それで良いのではないかと、今の僕は思っています。
編集:はてな編集部
1970年代前半生まれ。内科の医者になって四半世紀になりました。仕事では偉くなれなかったけれど、人生の楽しみかたは、少しわかってきたような気がします。本とテレビゲームと広島カープを偏愛しており、ブログに医学の話はほとんど出てこないため、20年くらい続けているのに、いまだに「医者だったの?」って言われます。
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