ブログ「チェコ好きの日記」で旅や文学について書いている、チェコ好きといいます。
最近、知人の祖母に認知症の症状が出始めたそうだ。おばあちゃん子である彼は、かなり動揺していたし、落ち込んでもいた。多趣味で何事にも活発だったという彼の祖母は、認知症の症状が出始めてからは大好きだった趣味の手芸に興味を示さなくなり、家の中に引きこもることが多くなったという。
祖父母との同居経験がない私には少し実感しづらい部分もあるが、家族が老いて変化していく過程を見つめることは、きっととても心細いだろう。大切な人のそんな姿はできれば見たくないし、自分のそれも他人に見せたくないという気持ちは、心情として分かる。そして、そんなふうに自分が認知症になることを恐れている人は、世間に相当数いるだろう。身近なところでも「他人や子供に迷惑をかけたくない」という声をよく耳にする。
「他人や子供に迷惑をかけたくない」という言葉は、一見すると周囲の人への優しさのように捉えられる。だけど私は、実はこのような思いこそが、じわじわと私たち自身の首を絞めているのではないかと、ときどき思ったりもするのだ。
臨床医として終末期医療全般に関わっている東京大学名誉教授・大井玄さんの著書『人間の往生─看取りの医師が考える─』(新潮新書・2011年刊行)によると、介護を受けている高齢者にとって、「人に迷惑をかけている」という感覚は、強い自己否定感をもたらすのだという。
多くの人が、周囲の人を幸せにしたい、社会の役に立ちたいと思って生きている。だけど、高齢になって身体機能や認知能力が衰えると、それがなかなか叶わない。自分は役に立つどころか、周りに迷惑をかけて生きている――そういった強い自己否定感から抜け出せなくなった高齢者の中には、「もう生きたくない」「早く死なせてくれ」と、医師にそっとささやくようになる人もいるらしい。こういった声を聞くと、大井さんは何ともやるせない気分になるという。
老いることはすなわち、周囲への迷惑なのだろうか? 2016年に大ブームになった、海野つなみさんの漫画を原作としたドラマ『逃げるは恥だが役に立つ(逃げ恥)』では、独身のアラフィフ「百合ちゃん」のある名言が、一躍注目を浴びた。年齢を重ねることをネガティブにしか捉えられない若い女の子に、「そんな恐ろしい呪いからはさっさと逃げてしまうことね」と、発想の転換を促す言葉を投げかけるのだ。
感覚や運動器官の衰えは、生きていれば誰であろうと回避できない。介護が必要になることや認知症の症状が出ることを「他人への迷惑」と考えるのは、『逃げ恥』に登場する若い女の子と同じように、老いに対する私たち自身への呪いになっているのではないだろうか。
もちろん、健康な老後を過ごすために今のうちから生活習慣に気を配ることは、無意味ではない。だけど、ある程度の備えはしつつも、自分に対しても他人に対しても「認知症になったらなったで、しょうがない」くらいの心構えでいた方が、社会はゆるやかでいられるのではないだろうか。
そうはいっても、将来認知症になるかもしれない、ということを不安に思う人は多いだろう。そこで、同じく大井さんの著書『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮新書・2008年刊行)から、「純粋痴呆」という考え方を紹介しておきたい。
高齢になるにつれ人の記憶力や認知能力は低下するため、同じ老人ホームの見知らぬ男性を「夫」だと思い込む、孫を「息子」だと勘違いする、といったことは起こりうる。しかし、たとえ記憶力や認知能力は低下しても、物を盗られたと思い込んでしまうような被害妄想や夜間の徘徊、家族や介護者に向ける攻撃的人格などを伴わず、周囲との摩擦を引き起こさない場合もあるという。そのような状態を、大井さんは純粋痴呆と呼んでいる。
同書で紹介されている、1975年に沖縄県島尻郡佐敷村(現・南城市)で65歳以上の老人708名を対象に行われた精神科的評価では、加齢とともに認知能力が低下した「老人性痴呆」と診断された人が27名(全体の4%)にのぼり、これは東京都での有病率と差はなかったという。しかしその中で、うつ状態や妄想・幻覚・夜間せん妄の症状を示していた人はいなかった。この原因を、調査した医師は「佐敷村では敬老思想が強く保存され、実際に老人があたたかく看護され尊敬されている」ことにあると分析している。
認知能力の低下は体力や身体機能の低下と同じように、逃れられないものだ。けれど、周囲の人々が状況を理解し、介護士など専門家の力も借りつつ、高齢者が不安に陥らないような環境作りができれば、妄想・幻覚のような症状を伴わない、穏やかな状態で過ごすこともできるのだと、この調査結果は物語っている。
もちろん、当時の沖縄と現代の都心部とでは環境が大きく異なる。高齢者とその周囲とのつながりが重要だと分かってはいても、精神論では乗り越えられない部分もあるだろう。だけど、認知能力の低下という認知症の「中核症状」(※編集部注:同書内では「中心症状」と紹介)と、周囲との摩擦を引き起こす妄想・幻覚などの「周辺症状」とを区別し、適切なケアよって周辺症状を回避できる可能性があると知っておくことは、私たちがいつか必ず向かう未来を息苦しくしないためにも、必要ではないだろうか。相手の状況を理解して「迷惑をかけるのも、かけられるのも当たり前」という気持ちで接していければ、結果として皆が穏やかに過ごせる未来につながるように思う。
私は旅をすることがとても好きで、このコラムを読んでいる人に、いつか機会があればぜひ訪れてみてほしい場所がある。イタリアのローマにある「サンタ・マリア・デッラ・コンチェツィオーネ」という教会だ。受付で料金を払って中に入ると、頭蓋骨、胸骨、大腿骨と、とにかく辺り一面の壁という壁が「人骨」で埋め尽くされている、驚愕(きょうがく)の光景が目に入る。
異様に感じるかもしれないし、怖いかもしれないし、気持ち悪いと思うかもしれない。だけど、私はぜひこの場所を、キワモノ目当てではない普通の人に、人生で一度は訪れてみてほしいと思っている。
大量の人間の骨は確かにおぞましいし、それらを組み合わせてシャンデリアにしたり壁の装飾に使ったりするのは、死者への冒涜(ぼうとく)だと感じるかもしれない。だけどそれは表面的に見える文化の違いでしかなくて、しばらくそこに佇んでいると、この場所が地域の人々に大切にされている、とても神聖な場所であることが分かってくる。そしてこの場所をさらに印象付けるのは、出口に書かれている「汝の姿は、われらが過去 汝の未来は、われらが姿」というメッセージだ。
大切な人の、また自分自身の「老い」は、心細いかもしれない。骨だけの姿になった人間は、恐ろしいかもしれない。だけど、それらを見えないところへ追いやらず「いつか必ず向かう自分自身の姿」と考えることで、私たちは加齢や介護や認知症の問題を、もう少しやわらかく受け入れられないだろうか。
人間の恐怖心を煽るのはいつだって、未知のもの、「知らない」ものだ。だとしたら、少しずつでも、「老い」について、そして終末について、見て聞いて、知っていくしかない。
「QOL(quality of life)」という言葉を聞くようになって久しいけれど、前出の臨床医である大井さんは、「QOD(quality of death)」という考え方も同じように重要だと説く。「QOD」とは、どのように死を迎えるのかという「死の質」を表す言葉だ。どのような状態で迎える死を「質の高い終末」と考えるかはまだ議論の余地があると思うが、『人間の往生─看取りの医師が考える─』では一例として、オレゴン州のホスピスで働く102人のナースが「終末の質」を評価した2003年の報告について紹介されている。
報告によれば、自らの意思で飲食をやめた高齢者の終末を見届けたところ、飲食をやめてからの生存期間は短いものの、穏やかな死を迎える人が多かったという。体の衰えに反して無理な栄養摂取をさせるのではなく、認知能力や体の衰えを自然に迎え入れるという考え方もあると知ることは、自分や家族の老いや死を考える際に、一つのヒントとなり得るのではないだろうか。
心身ともに健康でいられる間だけが人生ではない。認知能力が低下した後も、身体機能が低下した後も、消化吸収機能が衰え胃ろうを設置した後も、また胃ろう設置を控える判断をしたあとも、私たちの人生はまだ続くのだ。
「他人に迷惑をかけてはいけない」と、たった1人で歯を食いしばる社会よりも、他人を助けて、自分も困ったら面倒を見てもらう。人に迷惑をかけ、またかけられる。その方が現実的だし、認知症の周辺症状が引き起こす摩擦も、少なくなる気がする。
「他人や子供に迷惑をかけたくない」。これが間違った考え方だとは言わないけれど、少なくとも私はこれから周囲に、「困ったときはお互いさま」と、言っていきたい。
編集/はてな編集部
ブログ「チェコ好きの日記」で旅・読書・アートについて書いている、硬派な文化系ブロガー。芸術系大学院卒、専門はシュルレアリスムと1960年代のチェコ映画。文筆業を行いつつ、都内のIT企業に勤務もする。
チェコ好き(id:aniram-czech)さんの記事をもっとみるtayoriniをフォローして
最新情報を受け取る