まだ実際に介護が始まっているわけではないけれど、最近「親の加齢による衰え」が気になり始めた……そんなミドル世代のみなさま、こんにちは。ライターの甘木サカヱと申します。
私は義理の両親と一つ屋根の下で同居しながら、夫と共に小学生と中学生の二人の子どもを育てる、三十代後半のワーキングマザーです。普段はTwitterで「よく眠りたまに色々考える主婦」という名前で日々の生活についてつぶやいたり、二世帯同居生活の模様をつづったコラムを連載したりしています。
我が家の二世帯同居生活が始まったのは、今から12年前の2007年ごろ。初めての育児に疲労困憊した私は、いつも孫の訪問を歓迎し、「一緒に住もう」と言ってくれる義父母たちとの同居を前向きに考えるようになりました。そして、あるときこれからの生活について義父母と直接相談の機会を設けた際に、子育てや将来の介護のことなどを踏まえると、「二世帯とも、一緒に住むことにはメリットがある」という結論にいたり、いわば戦略的な形で同居がスタートしました。
当初、幼かった子どもたちはどんどん成長し、あっという間にそろそろ思春期。精神的に不安定になりがちな、対応の難しい年ごろを迎えようとしています。一方の義父母は、気付けばもうアラエイ(80歳前後)。幸いまだまだ元気な二人ですが、いつ何が起こってもおかしくない年齢であることは間違いないと思います。
これから介護が必要になるかもしれない「親」と、難しい年ごろを迎える時期の「子ども」。この2つに挟まれた、いわばクッション役が、真ん中世代の私たちです。
私は以前、特別養護老人ホームで介護の仕事をした経験があり、さまざまな高齢者とその家族のありようを垣間見ることができました。今回は、そのときの印象深い出来事や、二世帯同居の12年の日々で感じたことなどを通じて、家族が直面する「老い」に対して、私たちなりのできることを考えてみました。
最近、我が家で特に顕在化しつつある日常的な問題――その一つが、祖父母と孫の考え方のすれ違いです。
祖父母世代からすると、自分たちが若い頃にはなかったスマホやゲーム、動画サイトなどに夢中になっている孫の姿を見ると無性に不安を覚えるようで、「そんなもの止めて勉強しなさい!」と口に出している姿をよく見かけます。年齢とともに、新しい機械や習慣に対する拒否反応が出てくるのは、ある意味当然のことだと思います。そして、孫たち世代が、そんな頭ごなしの叱責に「うるさいな!」と反発したくなるのもまた当然のこと。
こうしたすれ違いは、大きく年の離れた世代が一つ屋根の下に住んでいれば、避けては通れない通過儀礼なのかもしれません。しかし、過度な対立は家族みんなのストレスを増大させるばかりですから、穏やかに解決できるならばそれに越したことはないと思います。
そこで我が家で行っているのが、私たち真ん中世代が仲裁役となり、両者を“尊重”する形でフォローを入れること。
私が特別養護老人ホームで働いていたとき、不機嫌をふりまくことで自分の存在感をアピールしようとする方がいらっしゃいました。そういう方は、たいていの場合、職員のちょっとした気遣いを欠いた態度により、「自分は厄介者扱いされている!」と感じ、自分の存在価値を認めてもらおうと、そうした行動をされていたように思います。これを防ぐためには、単純なようですが相手に敬意を持って接することが大切。
具体的に我が家では、子どもに対しては「おじいちゃん、おばあちゃんの若い頃は、スマホなんてなかった。今の時代に合わないことも言っているし、丸ごと言う事を聞く必要はない。でも、自分の経験をないがしろにされて悲しい気持ちも少しだけ想像してあげて」というようなことを伝えています。
祖父母に対しては、「子どもを見ていてハラハラすることも多いかもしれないけど、祖父母がいてくれてとても助かっているし、おかげできっと良い子に育つと思う。子どもも成長したら、きっと祖父母の気持ちを分かってくれる」というような内容を伝えます。
どちらの場合も、言い争いの直後は感情がたかぶって冷静に話を聞けないことが多いので、少し時間をおき、落ち着いたタイミングで話すようにしています。
こうした対応を繰り返すことにより、自分の言い分をきちんと分かってくれる人がいる、という心理的安全性を育み、両者の刺々しい言動を予防する効果があるのでは、と思います。
もちろん毎回うまくいく訳もなく、間に立った私自身がイライラしてしまうことも多いのですが、最低限のフォローを入れるだけでも、決定的な亀裂は避けられるのではないかと思います。
まだまだ元気だと思っていた親がふいに見せた仕草や言動に「老い」を感じてハッとした。そんな経験をお持ちの方は多いと思います。
今はまだ、日常生活に支障はないけれど、介護が必要になるのはそう遠いことでもないのかもしれない……漠然とした不安はありつつも、その日が果たしていつやってくるのか、誰にも予測はできません。
ただ、来るべき日に備えて、今からできることは少なくありません。我が家では、その一つとして同居を始めた10年以上前から、ある約束をしています。
それは、「家族がお願いしたら、必ず病院に一緒に行ってほしい」ということ。
健康に自信がある人ほど、自分が加齢とともに衰えていることは受け入れがたいもの。中には、認知症の症状が進んでから家族が受診を勧めても、頑なに拒否する方もいるようです。そういう方にとっては、「認知症になった」と家族から思われるのが耐えきれない屈辱なのだと思います。
そうした手遅れを防ぐためには、元気な頃から「認知症(あるいはほかの病気でも)は誰でも、若い人でもかかる可能性がある病気であり、早期発見できればそのぶん、病気の進行を食い止めやすい」という話を折に触れてしておき、早期受診にプラスのイメージを持ってもらうことが大切です。
また、私たちミドル世代と親世代とのコミュニケーションも重要です。そもそも「家族がお願いしたら」ということは、こちらで些細な変化にいかに敏感に気付けるかが勝負です。
私たちは二世帯同居なので比較的敏感に気付ける環境ですが、離れて暮らす方はより注意を払う必要があると思います。電話で話しているとき以前よりも言葉がうまく出ていない、こちらの声をスムーズに聞き取ってもらえない、あるいは帰省した際になんとなく気力、活力がない、家の中の様子がどこかおかしい、など。
少しでもおかしいと思ったら、「あなたはおかしいから病院に行こう」ではなく、「杞憂だと思うけど、あなたのことが心配だから念のため受診しよう」と、相手に心理的負担をかけずに伝えるように心がけることも大切だと思います。
具体的な介護の方向性について、親世代と元気なうちに話し合っておくこともとても重要だと思います。
生活に困難が出始めたとき、誰にどうやって手助けをしてもらうのか。家族が介護するのか、介護ヘルパーなどの訪問サービスを受けるのか、施設入居を検討するのか……。もしかしたら、親世代の期待と、子世代の計画には大きな食い違いがあるかもしれません。
私は二世帯同居を決意したとき、義父母の介護は自分が中心となって担い、可能な限り家で最期まで過ごしてもらいたいと思っていました。子育て期間中はいろいろと手助けしてもらうのだから、介護は私たちが担当するのが当たり前だろうと考えていたのです。
しかし、ひょんなことから介護施設で介護職のパートとして働くことになり、その考え方は変わりました。
私が働いていた特別養護老人ホームには、自分でオムツを外して糞尿を部屋中に塗りたくってしまう「ろう便」をする人、大声で奇声を上げ続けて意思疎通が全くできない人、「あいつが部屋に入ってきて財布や洋服をみんな盗っていった」と一日中主張し続ける「物盗られ妄想」のある人など、本当にさまざまな症状の方がたくさん入居していました。
何も彼らだけが特別なわけではなく、誰しも病気でこうなる可能性はあります。もし家族の誰かがこういう状態になったら、家庭で何年も介護することができるだろうか? そう考えたときに、初めて私は「家族だけで介護をすることは必ずしも最適解ではない」と気付きました。
介護職員の方々は、限られた仕事の間だからこそ、プロフェッショナルとしてきちんと介護することができるのだと思います。これがもし家族だけで介護することになり、24時間離れられず、いつ終わるとも知れない状態だったら……。精神的にも体力的にも追いつめられ、ニュースで報道されるような最悪の事態に、私自身決してならないとは言い切れません。
また、介護を受ける側にとっても、家族が全て面倒を見てくれることが果たして一番幸せなのか、という疑問が残ります。
例えば、トイレ介助やおむつ替えなどの場合、介護ヘルパーに頼むのは良くても、家族には絶対に頼みたくない、とても苦痛である、という高齢者の方はかなりの割合でいらっしゃいます。中には、自分の世話で子どもたちに過度な負担をかけることが苦痛となり、生きる意欲を減退させることもあると聞きます。
親世代は自分の介護についてどんな想像をし、期待をしているのか。子世代ができることは、どの程度なのか。金銭的な計画や外部サービスの利用など、早いうちにお互いの将来のビジョンを擦り合わせておくことが、将来の「こんなはずじゃなかった!」を防ぐために重要なことではないでしょうか。
我が家の場合、親世代がまだ元気なうちに、介護についてオープンに話し合っておくこと、家族だけでなく、外部のヘルプを積極的に利用していく方針を確認することで、将来の見通しはずいぶん明るくなったような気がしています。
老人ホームで働いていた頃、家族だけでおばあちゃんの介護を抱え込んだ結果、限界まで疲弊し、身体を壊したという中年の娘さんがいました。ご自身の限界を感じた娘さんは、罪悪感とともに施設に入れることを決められたようです。
しかし、その後しばらくしてから面会に来られた娘さんは、ぼろぼろと泣きながらスタッフに「何年ぶりかで、ばあちゃんと笑顔で話すことができた。ありがとう」と頭を下げていました。私は今でもその姿を鮮やかに思い出すことができます。
介護において一番大切なことは、誰か一人に負担を押し付けることなく、家族全員の気持ちを尊重し、介護の形を決めていくことだと思います。外部サービスは、家族の心身の余裕を確保するために必要なものです。決して罪悪感を抱くべきものではありません。
家族の形がそれぞれであるように、介護もまた、家族の数だけさまざまな形があります。将来どんなことがあっても、なるべくみんなが笑顔で過ごせるように。誰もが年を取り、衰えていくからこそ、変化を恐れない家族でいられるように。今から私たちができることを考えてみませんか。
編集/はてな編集部
「よく眠りたまに色々考える主婦」の名前で、Twitterフォロワー数は約91,000人 (2019年8月時点)。主な話題は育児・家事と仕事の両立、義理の両親との三世代同 居、絵本や猫についてなど。2018年からフリーライターとしての活動をスタート。現 在の悩みは、絵本棚の重みで床が抜けそうなこと。
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